いつもお越しくださっている皆様、いつもありがとうございます。
初めてお越しくださった皆様、はじめまして。
本日も、当社で発掘できた絶版参考書の中から選りすぐりの良著を紹介させていただたいと思います。
最後までどうぞおつきあいくださいませ。
本日、紹介いたしますのは・・・
「久保書店 誤訳・愚訳 漢文の読めない漢学者達!」 1967年刊 張明燈(ちょう めいちょう)先生です。-: 227ページ
出版社: 久保書店 (1967)
ASIN: B000J94GLQ
発売日: 1967
タイトルにインパクトがあって、思わず手に取りました。
著者 張明燈(ちょう めいちょう)先生の日本での1冊目の単行本です。
お恥ずかしい話ですが、まったく著者の先生を存じ上げませんでしたので調べてみました。
調べてみたら、経歴が多岐に渡り、もう紹介だけでこのブログが足りないくらいでした。
この本を発行した後に、張耀文の名で『奇門遁甲天書/地書 評註』などを発表し、台湾で一大奇門遁甲ブームを巻き起こしたのもこの前後である。とあります。(引用:ウィキペディア)
奇門遁甲とは?
張耀文が1968年に台湾で発表した『奇門遁甲天書評註』『奇門遁甲地書評註』『陽宅遁甲図評註』(いずれも台湾五術書局)などの奇門遁甲書は、世界で初の奇門遁甲解説書であり、それまで奇門遁甲の作盤法や使用方法について、常人に理解できるように書かれた書物は一冊もなかった。
張耀文の奇門遁甲書は、台湾で一大奇門遁甲ブームを巻き起こし、内容を真似たり、改変した書物、海賊版などが次々に出版され、やがて、香港、日本、大陸他でも同様の現象が起きている。 現在、日本を含む世界中で行われている奇門遁甲のほとんどは、張耀文の奇門遁甲書をベースにしたものか、又はアレンジしたものと考えられ、少なくとも影響を受けていないものは皆無と言って良い。 日本において、張耀文の奇門遁甲を特殊、異端などとする向きもあるが、これは本末転倒というべきである。
本著の紹介から大きく外れてしまいますので、ここまでにさせていただきますが、とにかく多才という言葉だけでは語り尽くせない方ですね~。ご興味のある方は、ウィキペディアリンクを写真に入れましたので、ぜひクリックしてみてください。
さて、それでは本著の紹介に入ります。
インパクトのある書名が目に飛び込んできました。これは、台湾出身の方がみると日本の漢学者の方々が訳した内容が違う。と意見した内容のようです。
- 文法を知らないからこんな訳になる
- 奇妙きてれつな地上最低の○○訳
- 漢詩の区切りも知らない訳者たち
- ○○訳にかかると名詩も大掃除の詩になる
- 正訳と誤訳のまじった○○唐詩選
等、かなり批判的に感じても致し方ない目次ですね。発売当初は、中国文学界からは黙殺されたとの記述も確認できますね。その後の出版についても「間違いだらけの漢文」や「誤読だらけの邪馬台国」といった著書があるが、賛同も批判もされないという、黙殺状態であったと同じく記述を確認することができます。
それでは、いよいよ本文を紹介に移ります。
「愚訳のため美女も泣き虫小僧になる」の漢詩と訳のページです。
いよいよ、日本の漢学者との解釈の違いを解説に入っていきます。
美女も泣き虫小僧と揶揄するのは、この「見れば着物には、涙の跡が、まだ湿ったまま。」とあるところから来ていると言われています。そのような言葉に該当する文字がない。書くならば、どこを根拠として書いたかを示すべきだとあります。
細かい語句、ひとつひとつに異論を唱える根拠が示されていて、漢学には無学に近い担当者は納得してしまいます。その部分の解説については、実際の書で確認していただくこととして、ここではなぜこのような批判と取れるような内容となったのか?にふれる部分に焦点をあててみたいと思います。
このページでお伝えしたいのは、最後の4行ほどの文章です。
「日本人は言語の異なりから、唐詩における音感的リズムのすばらしさを感じとれないようになっている。
唐詩はただ表現の高さだけでなく、音感も人々を恍惚の世界へ誘う大きい要素の一つになっている。
語感まで逸したのでは、何のための唐詩かわからなくなる。」
とあります。俳句の5・7・5のようなものでしょうか?深く理解をしていない上では間違いかもしれませんが、そう感じました。確かに、違う国の人に俳句を詠まれた場合、素晴らしいものも多いですが、違和感を感じたりするものもありますね。
著者が唐詩を翻訳する場合には、翻訳者に求める資質が明記されています。
「いやしくも、詩を訳す人は、感覚にすぐれていなければならない。なぜならば、感覚というものは詩の生命であり、
人々が詩を求めるは、その感覚を求めているのである。」
本質的なすばらしさを感じとることができる人が、詩の意味だけではなく、感覚も伝えることができるということなのですね。この他のページには、「アメリカに行ったことのない、英語学者はいない。」と発言されています。
しかし、日本の漢学者においては「中国を訪ねたことがない人もいる。」と。
文化を知るためには、一度訪ねてみる必要があるという意見には、賛成しきりです。
百聞は一見にしかず。ということですね。
ちなみに、著者の張明燈先生は、日本に縁が深く、最終的には帰化して日本に住まれています。
なので、日本のすばらしさを熟知したうえで、目覚めて欲しいと苦言を呈しているように感じました。
漢詩にも興味は湧きました。その恍惚の世界という音感的なリズムを理解できるようになればいいかもしれません。
そういう気持ちになり、新しい世界へ興味を得ることができた。そんな一冊でした。
また、良著を発掘し、紹介させていただきたいと思います。
次回更新もお楽しみに!
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